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現実は単なる二度寝の夢

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の行方

 久々になった。

近頃は手書きの日記も付けてないし、文章を書く機会がだいぶ減った。
twitterの140文字で制限された文はもはやネタか感情直結的な短文しか書けないし
文章を構成する力はだいぶ落ちたろうなと思う。

文章書くのも読むのも好きなことだから、やってる間は努力と思わないけど
でも日々続けていった方が力は持続するんだろうなあ。


特に記すべきこともないので、いつも通り妄想と空想を垂れ流す。


何年前だったか忘れたけど
「ネトゲに夢中になりすぎて、食事と睡眠を2日間せず死んだ男」
ってのが韓国でいて、少し話題になった。
なんでかこれがすごく記憶に残ってる。

ネットがリアルを侵食する、というのが一般的な人にまで広まるようになったのはいつからなんだろう。
世界中にインターネットが普及して、通信速度もあがっていって
仕事や娯楽に関係無く様々なツールが出ては消え。
ネットの快適さがいつからかリアルに大きな影響を与えるまでになっていった。

そもそもネットはリアルを充実させるためのツールだったんだと思う。
それがいつからか、ネットはリアルの延長線上になったり
もしくはネットとリアルが別世界になったりと形が変化してきた。

でも依然としてネットとリアルを比べたら
重要なのはリアル。ネットはあくまでサブ的な世界。
で、いつまで経ってもその意識が変わらないのは何故なのかなって考えたのね。


それってつまり、まず僕たちが住んでる世界がリアルの方だからだと思うの。
生まれて育ってきたのはリアルだし、物を学んだり遊んだりっていう
人とのコミュニケーションをとってきたのも、もちろんリアルの方。
きっとこの先仕事をしてお金を稼いでってしていくのもリアルの方。

この生活ならネットがサブ的な位置に立つのは当然だよなあと。
だって、リアルで稼いだお金が無ければそもそもネット環境を整えることが出来ないんだもん。
お金をもらうのもリアルだし、お金を払うのもリアル。
最近ではネット通販とかネットオークションも流行ってるから
ネット上での仮想金銭のやりとりも多くなってるだろうけど
物が届くのはリアルだしね。


でも、この関係が崩れていく可能性もあるんじゃないかな、というおはなし。



こう考える理由はいくつかあるんだけど、まず「お金」について。

日本ではあまり流行しなかったようだけど
一時期「セカンドライフ」ってのが話題になった。
簡単にいうと、バーチャルワールド。仮想世界。メタバースとも言うみたい。
自分の分身が仮想空間上にあって他人とコミュニケーションがとれる。
要するに「ミクシー」と「サンシャイン牧場」っぽい感じ?
それに「ハンゲーム」とかのアバターが付け加わる感じでイメージできるかな。

まあネット上の仮想空間に自分の分身を置いて他人とコミュニケーションするってのは
ある意味ありふれたツールだったんだ、すでに。
でもこの「セカンドライフ」が画期的だったのは
仮想空間内で作った物に著作権が認められたこと、それを売り買いできること
そして仮想貨幣を実際の通貨に換金できたことだった。

まあ僕は実際にやってないから詳細はわからないけど
企業にせよ個人にせよこれに目を付けた人は多かったみたいで
色々な物が売買されたみたい。
実際にそれでかなりの収入を得た人もいるようだけど
でもそういった人はリアルの時間を犠牲にしてネットでお金を儲けたんだよね。

つまり、今までのリアルとネットの関係性だったらありえなかったことが
段々可能になりはじめた。
リアルでお金を儲けるためにネットを使うとか、そういった関係性が
ネットで儲けたお金をリアルで使ったり、
もしくはネットで儲けたお金をそのままネットで使ったり。
これまでの関係とは違った関係に変化する可能性が出てきたってこと。

ネット上でしか使えない通貨ってたくさん種類があって
それはゲームによって違ったり、管轄する会社によって違ったりするんだけど
もしそれが現在使われてる通貨を仮想的に流通させるような仕組みが
しっかりと形作られてきたら、ネットとリアルでお金を行き来させることも随分と多くなるよね。

仮想貨幣を危険視する人もいるかもしれないけど、
例えば銀行ってそれが存在しなければ経営は成り立たないんだよね。それは昔からの話。
つまり仮想貨幣ってすでに僕たちの身近に存在してるわけ。
それが単に個人でもネットでやりとりが可能になるってだけの話。

もちろん、今世の中にある職が今のままだったら
皆がネットの中でお金を儲けて…っていうのは難しいかもしれないけど
「2010年に需要のある仕事10位は、2004年に1つも存在しなかった」
っていう話から考えるとどうだろう。
まあ「需要」ってのがどういった測り方なのかはともかく
ここで重要なのは、6年間で順位が入れ替わったとかじゃなく
6年前にはそもそも存在してなかった仕事があるって点だと思う。

社会を構成するのは人で、人はそれぞれに役割があって
仕事だろうと消費だろうとそれはそれぞれの役割だと思うんだけど
社会が変化すれば役割も変化するし、役割が変化すれば社会も変化する。

そういうわけで、社会の中でお金の形が変化すれば
それを使う形も得る形も変化していくし
今の世の中がお金に支配されてる以上、人々の生活も変化していくよねっていうこと。



で、それが「お金」について。
人間は衣食住で満足度を測るけど、そのどれにもお金が必要不可欠だし
人間生きるのにまず必要なのは「時間」だけど
それを対価として「お金」を得るわけだから、それってものすごく重要なもの。
僕は人間を支配してるのは「お金」だと思ってるし。
だからそれを取り巻く環境が変わったら
人間の生活も変化するのはたやすいよなと思うわけ。



それに加えて、ネットとリアルの関係を逆転させる大きな要因となる理由もう1つ。
リアルに不満を持つ人が、ネットでは生きることの出来る可能性があること。


それはつまりブサイクであるとかそういうことでは無くて。
例えば、手足の不自由な人。
仮想空間ではおもいっきり遊ぶことが出来るかもしれない。
野球をしてサッカーをして、そういった経験が出来るかもしれない。
例えば、目の見えない人。
星を眺めたり、美術館に行ったり。
その人自身が絵を描いたりすることもできるかもしれない。

不可能に思えるかもしれないけど、でもこれって実現するかもよ?

前にどこかで見たけれど、盲目の人のために画期的な機械が開発されたとか。
おでこのあたりにつけた装置から広がった光線の跳ね返りで色々な物との距離を測って
それを視覚野に電波で感知させるんだって。
んで、近くにある物は強い電波、遠くにある物は弱い電波っていう様にすると
目の前に立体化された世界が表示されたような感覚になるんだって。
もちろん紙に書いた文字は見えないし、世界に色は付いてない。
けど今まで目の見えなかった人にとっては
世界に形がついて、例えば他人の顔の凹凸だって認識できるようになる。


こういったことは科学の進歩の仕方に想像を委ねるしかないから
今空をとぶ車が無いように、遠い未来まで実現しないかもしれないけど
でも可能性はある。

ネット空間での生活が本格的になった時、それがどういった形で行われるのかわからないけど
もしもそれが健常者と障害者が同じ位置に立てるような仕組みだった場合
個人どころか、国がそれを推進する可能性だって否めない。
全ての人々が同じスタートラインに立つことが出来て
なおかつそこで学び遊び働き消費をすることができるなら
倫理的にそれが望ましいこととして受け入れられるかもしれないよね。


もちろん生活出来る環境がネットに整っていればこそ実現できる話だけど
上に書いたように、社会そのものが変容する可能性は十分にありえる。
んで、さらにそれを推し進める要素が出てくる可能性もあるよね、っていう話。




まあこの他にも色々とあるんだ。
例えば今すでにネットはそうなってるけど
他人に公開する名前を実名とリンクさせて無い場合
「半匿名」の環境を築くことが出来る。
そしたら、致命的な失敗を犯したとしても
またイチから文字通り「生まれ変わる」ことが出来なくも無い。

これはもちろん良くも悪くも応用できるんだけど。

お金を扱う以上これは難しいと思うかもしれないけど
全く新しい人間環境がつくれる場である以上
リアルでは想像出来なかったようなことが常識になるかもしれない。





そもそもこれを考えるきっかけになったのは
たぶん多くの人が考える「今いる世界が現実なのか?」ってこと。
仮想世界ってのは映画とか小説でもよくあるテーマだよね。
最近だと話題になった「アバター」(見てないけど)とか、あとは「サマーウォーズ」とか。

僕が言ってることに近いのは「マトリックス」の世界観かな。
世界中の脳みそが1つのパソコンに繋がれてて
実はそれを操縦して遊んでる誰かがいる
っていうことが妄想だって、誰が言い切れる?

この世界は誰かのゲーム画面でしかなくて
本当の「リアル」はこの画面の外にあるのかもしれない。
僕がこの文章を書いてることとか、君がこの文章を見てることとか
それらは全部もうプログラミングされた結果でしか無い。とかっていうことね。


それを考えてると、「リアル」ってどこにあってもいい気がしてこない?
生活さえできれば「リアル」なんてどこでもいいじゃない。

現時点では、人間には衣食住が必要で
それら全てはリアルの世界に組み込まれてるから
僕たちがネットの世界に住みこむことは少し難しいし
子供作ったり愛しあったりっていう行為自体も
欲望に倫理観も相まってリアルじゃないと、という感じだよね。

でもそれらが段々と変化していく可能性もあるんじゃないかな というだけの話。

そうして考えていくと、今の世の中で言われてる「常識」とかも
いつ「非常識」にすり替わるのかなんてわからないように思う。
それは色んな言い方があるけど
「あの仕事は安定してる」もそうだし
「そんなのは単なるお遊びだ」とかさ。
そういった言葉がいつの間にかどこかひっくり返るかもしれないよ。




と、就活が段々と近づく僕は考えたりするわけだ。
そうやって「リアル」から逃避してるだけなんだけどね。
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単純な思考

 誕生日を一日過ぎて
さっそく「大人の権力」を行使しに近くの小学校へ選挙投票へ。
終了時間5分前に駆け込み、すごく熱心な雰囲気をかもしだす俺。
とか言いつつ投票用紙には「いません」とか書いて子供っぽいことをする俺。
日本の行く末を案じるほど、大人ぶれない。




梅雨の季節の割にはすごく平和だなあと思っていたけれど
ついに先程ぶっ壊れました。
自分の行動を客観視することは好きだけれど
いきなりすぎて少しあせった。

ぶっ壊れたといっても、決壊したような感じ。
ひとり蹲って泣き啜りました。
いつまで経ってもひとりで。
枕抱えてぐしゃぐしゃと。

あ、具体的には何も書きません。世の中の60億人の僕のストーカーの皆様には申し訳ないけれど
今ある僕の身の回りの些細な事々については一切触れない。
ただまあ。ダメだなあと。


色々と反省すべき点はある。
けれどそれを反省したところで次に活かすことは出来ない。
なぜなら「始めないこと」が唯一の対策と成り得るから。
近寄らず、触れず、考えず、思わず、言えず。

人間としてダメだなあ。
ぽへえ。ってなわけ。



きっかけは小さなこと。
ある叱責が全ての物事を無理やり結びつけて(こじつけて)
頭の中で勝手にリンクしあって肥大した状況が脳みそを揺らしたってだけの話。

泣いた理由も、一言で言うなら「特にない」。
でも長々と説明してくれと言うなら舌が乾く。



特に書きたいことがあったわけじゃないです。
ただただ逃避したい現実がそこにあって
どうしようも無くて。

僕の周りの時間を少しだけ止めて
宇宙のあたりまで小旅行をしたい。
今の状況を忘れた頃に此処へ戻ってきて
そうしてまたイチからやり直したい。

明日の朝もバイトです。
そういった規則正しい生活が
僕から退屈な時間を拭い去って
退屈が無いということは
僕の想像力が段々耳のあたりから垂れ逃げていくということなので
それはとても残念なことだなあ、とぼんやり考える。




一人の時間が減ってるし
その理由も確かだし
それを止めようと思えば止めることは出来るけれど
その先にあるのは無意味な時間の羅列と成長しない自分と。
いつまで経っても人間に近づけない。

普通ですよ。とても普通な人間ですよ。
そして普通な人間なりに変な部分もある。
どんな普通な人間でも持ってる「ああここ変だよ」ってくらいの変な部分はあるけど
その変な部分がやっぱり少し変だ。

そこが無ければ僕じゃ無いと思うけど。
誰の所為でも無いし。

「人間失格」

あーもう。さようなら。




変わろうとしても変われない証拠なのかと思ったけど
いますごくびっくりしたのは
一年ほど前に理想としていた状況に重なる部分がとても大きいはずなのに
逃避したい現実が目の前に横たわっているのは一緒で
ただただどこかに逃げ出したい足元も同じで

靴を履き替えたいんじゃなくて
歩く場所をそのままそっくり変えたい。



誰も傷つけたくない。正直に言えば、出来ることならば、僕も含めて。誰も。

減るたー透けるたー

 おひさしぶりーふ。何時の間にやら6月もはんぶんこ。


昔っから「無意識がどうたら」って話をしてたが
なんとなく、思いついたことがあるんで。書きます。
これまでの考えが根底から崩れるかも。


無意識と意識ってのは、逆の部分にあるものですよね。
意識ってのは名の通り、自分で意識できる部分。
無意識ってのは、意識できない=自分でわからない。

だから、無意識の自分を意識するためには
他人からの指摘を受ける必要があったりする。


でもそれって・・・

ダメだすげー眠い。明日にまわすか。
結論は別に大したことじゃなくて
無意識=本能だよねっていう。
でもそこから無意識→意識のプロセスを考えると
草食化とか女性の社会進出とか

ああもうめんどい明日だ明日!ねみい!

彼女の増すから

ほい久々。余計な前置きはのけといて
少しメモ代わりに2つの事をば。


1つめはどうしようもなくしょうもないこと。
僕は、そのうちカツラをかぶる若者が多くなるんじゃないかとふんでる。
おそらく誰かがやり始めたら流行りだすレベルだろうなと。
ハゲの爆発的な進行、流行ってわけじゃないよ。
あくまでファッションとしての。

理由はもう想像つくだろうし割愛。この話題、終了ー。





で、2つ目だ。

以前から僕は生死に関わる考え事をするのが好きだった。
特に「来世」とは何かということ。
宗教の概念にもよるだろうけど、つまりは死んだ人間が次の世代で生まれ変わるということだ。
じゃあ「生まれ変わる」って、いったいなんだ?


死んだ以上、肉体は別物だし
赤ん坊から成長していくのだから、精神も違う。
何をもってして、「僕」が来世での「僕」となりうるのか。
今の「僕」と来世の「僕」では、なにが違うのか。いや逆に、なにが同じなのか。


おそらくそこに存在する考え方は「魂」だ。
そもそも魂に対する考え方も宗教だとか個人だとかで違うだろうけど
ここでは、まあ、肉体と精神を結びつけるもの、とでも考える。

こいつが同じだから、来世での生まれ変わりってのがある、というような考え方だ。



正直いって、僕は元々生まれ変わりを信じてない。
この人生は一回切りだと思ってる。
だから毎晩寝る前「このまま死んだら嫌だな」とすごく怖くなる。
そして「死」について無意識に考えてる自分に気がついて
「あっちいけ、あっちいけ」と意識を、ぷいと横に背けながら寝ようとするわけだ。

魂なんてのは、どうしたって死という存在を肯定したくない人たちが考えつく偶像だ。
それさえあれば僕たちには「生き返り」の選択肢が残されてるわけだから。


しかし「魂」というものを考えてみる面白みもある。

例えば、幽霊の存在なんて話がある。
科学的には立証できない不可思議な現象。
でも僕なりの説明でいえば
それは「魂」に糊付けされた「精神」の具現化だ。
「肉体」を失ってもなお、強すぎる「精神」が「魂」の粘着力を高め
普通ではありえない、現実世界そのものへの結合をしてしまう、という。。。

文字にしてしまえば、「そんなバカな話があるか」と一蹴される笑い話だけど
いいじゃないかどうせ笑い話だと思って書いているんだから。
どうせなら可笑しなストーリーを考えた方が楽しいでしょう。



で、だ。今日の本題。

そもそもその「魂」とやらが存在しているにも関わらず
現実世界の僕らは生き返りを実感できていない。なぜだろうか。
どうしたってどこかで僕ら自身が生き返りを実感できていなければ
それはそもそも「生き返り」と呼ぶことができるのか?いやできないだろう。
ではなぜ僕らは実感できていないのか。

それは僕らが「魂」を持っているにも関わらず「生き返り」ができていないからだ。
そう、生き返れてないのだ。この人生は一度きり。
しかし「魂」が存在しているなら、それがそのまま「精神」とひっついたまま来世へとんで行けばいいじゃないか。



そうはいかない、理由がある。

なぜか。その原因は「魂」の形にあった。
そこが今回の話したいことだ。
僕はずーっと、魂は粘土のようなものだと考えていた。
現世にある魂の粘土は、来世へ行く間で一度大元の魂と合致するのだ。

現世において、人には1つずつの魂の塊(漢字にすると紛らわしいな)を与えられている。
そして死んだあと、その魂は大元の塊へと融合されるわけだが
まるで1つの小さな粘土の団子を大きな粘土の塊へ混ぜあわせるような感じになる。
そしてまた新たな人間が生まれたとき、大きな粘土をちぎって1つの小さな粘土の塊にするように
大元の魂から、ひとりの人間分の魂を作り出して、与えるわけだ。

魂が大元の塊へとまぜあわせられる度に、それは別のものになる。
例えば青の粘土を赤い粘土へと混ぜあわせて、またその1つの粘土から2つの粘土に分けるとする。
そうして出来上がった粘土は、元あった赤と青の粘土では無くなっているはずだ。

こうして、現世と全く同じ魂が生成することがほぼ不可能な以上、生き返りは無理だと考えたわけだ。



しかし我乍らこの考え方には疑問があった。
魂の消失、生成があまりにも単純すぎて
いくら例えだとしても「粘土」は適さないような気がしていたのだ。
もうワンクッション置きたかった。



で、先日友人達と焼肉にいったときのこと。
腹も満ぱんに膨れたあと、友人がちょっとした手遊びをしているのを見て
「お」と閃いた。

友人は、焼肉の終えた網の上で氷を転がして遊んでいた。
火はまだついていたの、氷はみるみる溶けていく。
最後には完全に水になって、炭の上で「しゅ」っと音を鳴らして消えていった。

これだ。粘土ではなく、水から氷へ。氷から水へというイメージがぴったりなのだ。




現世の人間はひとりずつ氷のような魂を持つ。
生きていくなかで、その氷は段々と溶けていく。
溶けきったとき、否応もなく僕たちは死んでしまう。
溶けた氷は、どこかに溜まっている水と一緒になる。
そしてその溜まり水を少し掬って製氷機にかけて
また新しく生まれた人間に分け与える。


完璧なイメージが出来上がった。
これで僕たちの生死のサイクルの全体像がぼんやりとつかめたことになる。







以上。なんだかわけのわからない話かもしれないけれど、興味をもってくれると嬉しいなあ。

箸べる仲で並べるうる

 忙しいとは言ってもブログを書けないほどじゃないんだが
ブログなんて書いてる暇あったら他に作業することあるんじゃい
と言ってブログには手をつけないまま
なんかネットしたりテレビみたり。矛盾す。

28日頃にきちんと書きたい。
何かを書かないとやはり脳みそがくさっていってる気がする。こわい

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