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現実は単なる二度寝の夢

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うすらばったり狩場だったり

このブログで記事を初めて書いたのが2009年11月のこと。
さらにその前に書いていたブログをいま確認してみたら、2005年の11月だった。

こうして自分の思考のかけらが散らばったりしているので、自分の性根がどんなもんかを確かめるのにあまり苦労しなくて済む。
自認しつつも忘れがちな部分があって、それを人生の節目節目で再確認しなければならない。

あまり未来のことを考えるよりも、いま自分がどうしたいかを考えるのが大切らしい。
とはいえ、今まで自分がどうだったか、という振り返りも大切なような気がする。

こういう環境に身をおいたら自分はこうなるだろうとか、これを手に入れたら自分はこうするかもしれないとか、あまり良くない考え方だ。少なくとも自分にとっては。
やらなかったことよりもやってきたことに着目したほうが良い。できなかったことよりもできたことに着目したほうが良い。

選択の積み重ねがその人の個性を作るらしい。そしてその個性がまたその人の選択を作るらしい。今まで自分はどんな選択を繰り返してきたのか、それを改めて考えることで自分の個性を客観的に観ることができる。
そこで見えた個性から、次の自分の選択を判断するのが合理的な考え方のように思える。
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更らるり巻きたり

人間がこのまま生命の神秘と宇宙の向こう側を解明していくことに、少しだけ不安を感じている。
なんとなく、結論として「人間の一生って、なんだか別に大したことじゃない」っていう話になりそうだから。

〜〜〜〜〜〜

人間は人間の基準を持って宇宙に「生物はいるのか」ということを躍起になって探求している。
でもそれは、あくまで人間の知覚(+αくらい)で捉えうる範囲でしか観測できなくて、そこに意味はあるんだろうかと思う。

いま人間がカテゴライズしている「生物」というのはあくまで地球上で生息するためにデザインされた生物でしか無い。
呼吸とか、歩行とか、思考とか。
でも、宇宙に出て地球そのものから離れた場所で「生物」を観測しようとしたときに、そのカテゴライズはあまり意味を持たない。
だとすると宇宙で生物を見つけるにあたっては何かしらの定義付けが必要になる。それってなんだろうか。

たぶん、実用的な意味合いも含めて考えようとすると、「人間と意思疎通をとれるかどうか」は1つのポイントになってくる様な気がする。
(それがそのまま地球の「生物」の定義に当てはまるわけじゃないけど、いったん置いとく)

でも、結局そこを突き詰めて考えていったときに、最終的に「人間の意思」の上位概念みたいなものに気が付いてしまうんじゃないだろうか。
運命とか、感情とか、論理的思考とか、そういうものを全て決定付ける何かしらのものを発見してしまうんじゃないか。

そうなると人間は人間として生きる意味を見失う。
それまで人間は生物の頂点であることとして、他の生物には無い思考によって文化的な生活を送ることができることを挟持として持っていたのに、そんなことが全くの意味を成さない(そういったことを考えること自体も全て筋書き通りだった)ということが分かってしまったから。
こんなことに気がつくくらいだったら何か思考を持たない生物(つまりは人間以外の全ての生物)として生きている方がよっぽど生物らしく生きることができたのに、と絶望する。

みたいなことがありそう。

とりあえずそんなことが分かる前に自分は一生を終えられると思うので、そこはひとまず安心しておこう。

売らり待ちたり

時間がゆったりと過ぎていく。

自分の寿命がいつなのかは分からないけれど、
いちど、80歳くらいになったときに現状を俯瞰してみたい。
いまこの気持を記憶したまま、俯瞰してみたい。

「人生にIFは無い」というのが座右の銘で、生きた道そのものが
その人を表すし、それまでの道のりや選択肢に誤り(誤りという表現は本当は正しく無いのだけれど、それ以上の言葉が見つからない)は無かったと思いたい。

だけど、とある大きな決断をくだそうとするときに、その決断の内容そのものに
加えてそもそも決断をくだすこと自体が正しいことなのかどうか
というようなことはどうしたって気になる。

はなざるあいそ

自分のために文章を書くということを久しくしていなかった。

いままで自然に継続していたことが何かあったとして、
実はその何かには物凄いパワーがかかっていたんだろうな
と気がつくのは、それをやめてからしばらく経ってからなんだろうな。

こうしてブログだったりなんだりを書くときに、
昔は特に何かを考えることもなくすらすらと手が動いていたもんだけど、
今はどうもそうはいかない。
なんだかすごく不自然に感じる。

考えるために考える、なんだか一段プロセスが多い様に感じる。


人は反射的に生きてる。
社会は人同士の反射で成り立ってる。
会話や挙動は反射がすべて。

反射的な動きを阻害するプロセス。
思考のプロセスが一段挟まるだけで、人は異様に「のろさ」を感じる。

いやだなあ

はいたらばる

前回の記事から何ヶ月?8ヶ月?
ずいぶん経ったなあ・・・。


諸々あって、人生プラン的に次のステップへ進んでる。
11月から今までの間にそんなにもろもろもろあったわけでは無いけども。


さて。
いわゆる社会人になって久しぶりに「強制的な時間」に当てはめられる生活へと戻りまして。
大学の頃は休みたいときは休むような生活を送っていたし、実に4年ぶりだろうか。
やっぱりこうした「強制的な時間」に捕らえられるとどうしたって逃避したくなるし
その逃避しようとする気持ちこと、自分にとってのアイデアの源泉だと感じる。

てなわけでここ最近、長文で記してみたいことはたくさんありまして。



例えば、【プライド】に関すること。
これは現実逃避ぎみに考えたことというよりかは
他の人に言われたことを話しながら考えた結果なんだけど。


僕自身、自分のことをすごくプライドの低い人間だと思っていて
それを周りにも言っているので、おそらく周りの人もそう思っている。と思っていた。

例えば昔かけっこで、並走していた奴がすっ転んだ瞬間足をとめてそいつを助けに回ったとか
お正月の福袋の争奪戦でココロが沈むくらいに競争心が弱い。
だからもう自分としてもすっかり、競争心弱ければそれってつまりプライド低いってことなんだろうなあなんてことを思っていた。

それでも、プライド高い、ということを言われることが無いわけでも無く。
そうした意見は単に自分の真の部分をわかっていないだけだろうと思っていたんだけど
こないだそうした旨のことを言われたときに、改めて向き合ってみよう
なんて考えながら、そしてその人と話をしながら考えてみた。

そこでかなり、ピンときた。
ピンとくるどころかビビッときた。自分でも衝撃的な発見だった。

それは、実はプライドには2種類あるということ。
【相対的】なプライドと【絶対的】なプライド、の2種類。
ふつうプライドといえば、ここで言う相対的なプライドの方を思い浮かべているはず。
あいつに負けたくない、誰にも負けたくない、とにかく負けたくない。
そんなのが相対的なプライド。
これはそのまま競争心と言い換えることもできると思うし、人間社会を生き抜いていく上ですごく大切な要素だと思う。

では絶対的なプライドって、なんだろうか。
自分の中には自分に対するハードルが存在するんだけど、それが絶対的なプライド。
「こう見られたい」というのが相対的なプライド、
「こう在りたい」というのが絶対的なプライド。
根幹にあるのは同じような気持ちかもしれないんだけど、その効果の表れ方は違ってくる。

僕の場合は相対的なプライドはすごく低くて、その一方で絶対的なプライドが高いんだということだった。
自分の中で考えをどんどん深化させていくのもそうだし、身に付ける小道具なんかに拘ってしまうのもそうだし、それぞれ関係の無さそうなこともつなげて考えてみるとけっこう理にかなっている感じがする。
いや、こじつけと言われれば反論はできないんだけど。


書きたいこと以上に、発見がなかった。
うーん、ブログがんがん書くのが下手になってるなあ。

続けて書くことにしよう。また、上手になったとき改めてこの話したい。

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